美術館でしか味わえないテクスチャー感を求めて


落合 陽一
メディアアーティスト
筑波大学准教授

インターネットの普及やデジタルテクノロジーの進化によって、既存の文脈がさまざまに読み替えられていく現代。アートの権威を担保してきた美術館は、どう変わっていくのでしょうか。

アーティストとして、デジタルネイチャーの研究者として、時代の先端を走り続ける落合陽一さんに、三菱一号館美術館の印象、美術館が今後担うべき機能、そして今、ご自身が取り組んでいるテーマなどについて伺いました。

美術館でしか味わえないテクスチャー感を求めて

 メディアアーティストとして作品を展示する時は当然ですが、一人の鑑賞者としても美術館にはよく足を運びます。週一回ぐらいのペースで行っているのではないでしょうか。 東京には美術館が多く、上野の美術館には上野らしさが、六本木の美術館には六本木らしさが感じられ、一口に美術館といっても場所によって全く雰囲気が違うと思います。 この三菱一号館美術館は丸の内というビジネスエリアにあるせいか、他に比べて、落ち着いた時間が流れている印象を受けました。

 私は美術館にはメディアとしての面白さと、コンテンツとしての面白さの両面があると思っています。 つまり、箱物(=メディア)としての面白さと、そのなかに展示する作品のキュレーション自体(=コンテンツ)の面白さということですが、今日、拝見した展覧会(編集部注―「印象派からその先へ―世界に誇る吉野石膏コレクション」展)はどちらもよかったです。

 メディア面で言えば、三菱一号館美術館は1894年に建てられた西洋賃貸オフィスビルを復元した建物ということで、だいぶヨーロピアンな雰囲気ですよね。 ただ、全体の造りは小ぢんまりとしているので、美術館にいるというよりも、ヨーロッパの「お家(おうち)」のなかで絵を見ているようで、購入してきた絵画を見ているような気分で向き合うことができて新鮮でした。

 コンテンツとしては、館蔵品のオディロン・ルドンの《グラン・ブーケ》に感動しました。 カンヴァスにパステルが砕けたり、剝落したりしそうなくらい、ぎりぎりの状態でくっついている。 指で触ってみたいけれど、触ることはできないという、何とも言えない圧倒的なテクスチャー感があります。こんなに大きなパステル画をブルゴーニュの城館からよく運んできたなと思いますよ。 どうしたら、あの素晴らしいテクスチャーを損ねることなく持ってこられるのか、私には分かりません。

 アートには解釈や批評性を競うような「文脈のゲーム」と、感覚的な快楽に直に訴えるような「原理のゲーム」という二つの側面があると私は著書のなかで分類しているのですが、《グラン・ブーケ》のテクスチャー感は、原理のゲームとして圧倒的です。 久しぶりにギリギリで成り立っている質量感の圧倒性に痺れました。

液晶画面では伝わらない 原理のゲームを見せてほしい。

 アートに権威を与えてきた源泉の一つは「鑑賞可能性」だと思います。 それを担保してきたのが、そこに行かなければ作品を鑑賞することができないという、「場所」としての美術館やギャラリーです。ところがインターネットが浸透し、デジタルテクノロジーが進化したことで、あえて美術館に行かずとも、誰もが、どこにいても、あらゆるアートを鑑賞できるようになりました。そうした状況において今後の美術館は、スマートフォンの液晶画面では分からないこと、伝わらないことを提示していかなければなりません。 それはいわば「原理のゲーム」を見せていくということです。 「原理のゲーム」に耐えられる巨大なものや、小さくてもこだわりのある作品といった、そんな作品が美術館のコレクションにあるといいですね。

 たとえば《グラン・ブーケ》のテクスチャー感を分かってもらおうとしたら、4Kや8Kの解像度では足りないと思います。 そんなことより、実際に現物を生の目で見たほうが断然いい。 物質が時間の隔たりを経て、ギリギリの状態で成り立っている興奮は、やはり現場に足を運んで、実物を見てみないと分からないものだと思います。

 かといって、いたずらに解像度を上げればいいということでもありません。 先日、8Kで撮影された《モナ・リザ》を取り上げた番組を見て、「こんなひび割れた《モナ・リザ》が見たいわけじゃない。 現実の《モナ・リザ》のほうが記憶と曖昧に混ざって古ぼけていて魅力的でよかった」と思ったんです。この点が重要なのですが、つまりリアリティ(解像度)を上げすぎてしまうと、その作品が持っているテクスチャー感から生まれる何とも言えない魅力を味わうという意味では、かえって逆効果な場合があります。
 そうした微妙なニュアンスを、たとえば照明一つで調整して見せてくれることも、作品を展示する技術に長けた美術館の存在価値なのではないでしょうか。

美術館でしか味わえないテクスチャー感を求めて

 東京都現代美術館で開催されていた「ダムタイプ|アクション+リフレクション」展では、放っておいたら文脈のなかで“懐かし映像”になってしまう可能性のある過去の動画作品を4K映像でリバイバルしていて、長生きしているとメディウムの変化が作品に新しい息吹を生むこともあるのだと感じ入りました。こうした企画を美術館主導でやることにも意味があるのではないでしょうか。

 つまり新しいアートムーブメントを生み出すこと自体に、作品収蔵以外の美術館の重要な役割があるのではないかという気がします。

“ねじれ”の位置にあるものを 再分解して現代アートに。

 私はインスタレーション作家なので、作品を置く場所や空間を、作品をつくることと同じくらい重視しています。 その観点から言うと、三菱一号館美術館はおそらく19世紀的な絵画向きだと思います。 彫刻もいいかもしれないけれど、ヒューマンスケールよりも小さい、顔や手といったサイズ感のものが向いているのではないでしょうか。一号館美術館にもし私の作品を展示することになったら、壁からの距離なども考慮して作品のサイズを小さくするでしょう。 また、ここは調度品の美しさなどを含めて展示空間が全体的に親密なので、たとえば柱時計と組み合わせて作品を置いたり、暖炉の上に作品を置いたりして、生活空間そのものをつくり出せるような展示をしてみたいですね。

 この美術館でどんなことをすれば面白いか、いろいろと考えられますが、大きくないものを前提に、明治から大正あたりに日本でつくられたヨーロッパ的なものを集めて展示したり、たとえば和、洋、過去、現代のような、いわゆる“ねじれ”の位置にあるものを橋渡ししたりして上手に着地させるような企画を探って展示したりすると面白そうです。

 私自身、今、アーティストとして興味を持っていることの一つが、本来ねじれの位置にあるものを再分解・再構成して、メディアアートに落とし込んでいくということです。 私が総合監修とアートディレクションをした「計算機と自然、計算機の自然」が日本科学未来館の常設展示として始まりました。この展示は、竹林や寺という日本の伝統的な文脈にあるものを、たとえば竹林を銀の柱に置き換えたり、寺という構造体を取り払い、そのなかに置かれている掛軸、生け花、茶碗、ダルマ、鐘、鹿おどしなどを、あえてバラバラに配置したりして展示しています。

 「わび」とか「さび」という言葉に象徴される日本的な工芸品や美術品は世界的に流通していますが、では、そうした民芸的な工芸品や美術品を素材として扱った現代アートが海外で評価されているかというと、いまだそうでもないと感じています。 その点に着目し、逆にそのことを私が吸収して、再分解・再構成しながらメディアアートをつくりたいと思っています。 たとえば茶器がメディアアートになった時、それは日本の生活空間にも当然飾れるはずなのです。 そのような再分解や再構成の対象を、たとえば古代出雲に設定してもいいし、私が「ネオ昭和」と呼ぶ工業社会的日本やバブルに湧いた80年代の日本にしてもいいと思います。

いずれにしろ日本的な文脈をしっかり捉え直し、現代アートをつくっていくことに、私自身は可能性を感じています。

美術館でしか味わえないテクスチャー感を求めて

Profile photo by 蜷川実花

【プロフィール】
落合 陽一
OCHIAI YOICHI
メディアアーティスト。1987年生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。筑波大学准教授
2015年World Technology Award、2016年PrixArs Electronica、EUよりSTARTS Prizeを受賞。Laval Virtual Awardを2017年まで4年連続5回受賞、2019年SXSW Creative Experience ARROW Awards など多数受賞。近著として「デジタルネイチャー」、「2030年の世界地図帳」、写真集「質量への憧憬」。「物化する計算機自然と対峙し,質量と映像の間にある憧憬や情念を反芻する」をステートメントに、研究や芸術活動の枠を自由に越境し、探求と表現を継続している。