そうした微妙なニュアンスを、たとえば照明一つで調整して見せてくれることも、作品を展示する技術に長けた美術館の存在価値なのではないでしょうか。
東京都現代美術館で開催されていた「ダムタイプ|アクション+リフレクション」展では、放っておいたら文脈のなかで“懐かし映像”になってしまう可能性のある過去の動画作品を4K映像でリバイバルしていて、長生きしているとメディウムの変化が作品に新しい息吹を生むこともあるのだと感じ入りました。こうした企画を美術館主導でやることにも意味があるのではないでしょうか。
つまり新しいアートムーブメントを生み出すこと自体に、作品収蔵以外の美術館の重要な役割があるのではないかという気がします。
私はインスタレーション作家なので、作品を置く場所や空間を、作品をつくることと同じくらい重視しています。 その観点から言うと、三菱一号館美術館はおそらく19世紀的な絵画向きだと思います。 彫刻もいいかもしれないけれど、ヒューマンスケールよりも小さい、顔や手といったサイズ感のものが向いているのではないでしょうか。一号館美術館にもし私の作品を展示することになったら、壁からの距離なども考慮して作品のサイズを小さくするでしょう。 また、ここは調度品の美しさなどを含めて展示空間が全体的に親密なので、たとえば柱時計と組み合わせて作品を置いたり、暖炉の上に作品を置いたりして、生活空間そのものをつくり出せるような展示をしてみたいですね。
この美術館でどんなことをすれば面白いか、いろいろと考えられますが、大きくないものを前提に、明治から大正あたりに日本でつくられたヨーロッパ的なものを集めて展示したり、たとえば和、洋、過去、現代のような、いわゆる“ねじれ”の位置にあるものを橋渡ししたりして上手に着地させるような企画を探って展示したりすると面白そうです。
私自身、今、アーティストとして興味を持っていることの一つが、本来ねじれの位置にあるものを再分解・再構成して、メディアアートに落とし込んでいくということです。 私が総合監修とアートディレクションをした「計算機と自然、計算機の自然」が日本科学未来館の常設展示として始まりました。この展示は、竹林や寺という日本の伝統的な文脈にあるものを、たとえば竹林を銀の柱に置き換えたり、寺という構造体を取り払い、そのなかに置かれている掛軸、生け花、茶碗、ダルマ、鐘、鹿おどしなどを、あえてバラバラに配置したりして展示しています。
「わび」とか「さび」という言葉に象徴される日本的な工芸品や美術品は世界的に流通していますが、では、そうした民芸的な工芸品や美術品を素材として扱った現代アートが海外で評価されているかというと、いまだそうでもないと感じています。 その点に着目し、逆にそのことを私が吸収して、再分解・再構成しながらメディアアートをつくりたいと思っています。 たとえば茶器がメディアアートになった時、それは日本の生活空間にも当然飾れるはずなのです。 そのような再分解や再構成の対象を、たとえば古代出雲に設定してもいいし、私が「ネオ昭和」と呼ぶ工業社会的日本やバブルに湧いた80年代の日本にしてもいいと思います。
いずれにしろ日本的な文脈をしっかり捉え直し、現代アートをつくっていくことに、私自身は可能性を感じています。
Profile photo by 蜷川実花
【プロフィール】
落合 陽一
OCHIAI YOICHI
メディアアーティスト。1987年生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。筑波大学准教授
2015年World Technology Award、2016年PrixArs Electronica、EUよりSTARTS Prizeを受賞。Laval Virtual Awardを2017年まで4年連続5回受賞、2019年SXSW Creative Experience ARROW Awards など多数受賞。近著として「デジタルネイチャー」、「2030年の世界地図帳」、写真集「質量への憧憬」。「物化する計算機自然と対峙し,質量と映像の間にある憧憬や情念を反芻する」をステートメントに、研究や芸術活動の枠を自由に越境し、探求と表現を継続している。